釣りか魚か

ボランティアでよく言われるのが、「食料が足りなくて困っている人には、魚を与えるだけでなく、釣り(魚の取り方)を教えなければいけない」といったこと。

これは、「可哀想だからと施しばかりしていたら、困っている人の暮らしは、いつまで経っても楽にならない。与える方も疲れてしまう。自ら考え行動できるようになってもらうことが大切である。さらには、逆にボランティアとなって力を貸してもらえるぐらいになってもらおう。」といった意味です。

日本語教室でも、「日本語を一方的に教える」のではなく、日本語というテーマを通じて、学習者がより良い生活を送れるように支援し、自立を促すことを目指しています。

実際、以前は日本語を勉強する立場だった外国人学習者が、日本語ボランティアとして学習者に日本語を教えているケースもあります。

外国人の母語や生活習慣がわかる上に、学習者としての経験があるので、これほど頼もしい日本語ボランティアはいません。まさに、「スーパー日本語ボランティア」と言って良いでしょう。

しかしながら、「スーパー日本語ボランティア」が育つことは非常に少なく、時間もかかります。

作者自身も、外国人学習者に対して「スーパー日本語ボランティア」になることまでは期待していません。

外国人学習者に対して望むのは、自分で釣りができるようになることであり、連れた魚をどうするかは学習者の判断に任せています。

そして、もっとも注意し恐れているのが、「学習者の自立を邪魔しないこと」です。これが、なかなか難しいのです。

釣りができるようになるまでは、魚を与えることも必要で、いきなり魚をストップしてしまえば、飢えて死んでしまうかもしれません。

自分で釣りをしてもらうにしても、最初はエサをつけてあげないといけないかもしれない。

しかし、「与えすぎ」や「教えすぎ」は、確実に「学習者の自立を邪魔してしまう」のです。

現在、地方の財政や住民の暮らしが苦しくなっていると言われています。

これまで政府に保護されてきた農業や建設業が、どうやって自立していくのか。

政府の方針に従っていた電子自治体の多くが疲弊している。彼らは、住民に対して費用対効果の高い良質なサービスや価値を提供できるのか。

そんな話を聞くたびに、「釣りか魚か」を思い出し、そのバランスを上手に取ることが政治や行政に求められているなあ、と思うのです